創業の歴史

田宮五郎画像

西村山郡河北町谷地。ここに続いた旧家、田宮家の12代「田宮五郎」は慶応元年(1865年)の5月5日に生まれている。幼名は謙蔵といい、6人兄弟の2番目であった。10歳の時に母が亡くなり、その翌年には父である10代田宮五郎が亡くなっている。長兄が11代を名乗るのだが、病気がちであったために25歳という若さでこの世を去ってしまう。その当時、わずか14歳であった謙蔵が家を継ぎ、12代「田宮五郎」となったのは明治11年のことである。

代々、田宮家は村役人を務めるのだが、御多分に漏れず12代も役場書記などを歴任している。職務を遂行しながらも、五郎の頭には常に「地域発展」という四文字に対する、使命感のようなものがあった。

当時、農家の冬の副業として細々と行われていた"ぞうりづくり"を、なんとか主産業として高めたいと考えた彼は、苦労の末、明治22年(1889年)に日本初の「ぞうり表圧搾機」を発明する。この機械は翌年の〈第3回内国勧業博覧会〉で名誉褒賞を受賞、専売特許も取得する。質が良く値段の安い「最上ぞうり」の製造は盛んになり、伴って流通量も増大。その名も一躍日本全国に広まっていく。「最上ぞうり」は文字通りこの地方の主産業となったのであった。

五郎はまた、学問に対しても広い視野を求めた人で、友人の小野森次郎を招聘しては英語を学習する「英学会」をおこしたり、知人である石川賢治と主唱して「谷地読書協力会」を結成。当時は少なかったであろう書物を幾人かで輪読しながら、郷土発展のため、中央の動きはもとより世界の動きにも目を向け、夜の更けるのも忘れて討論を続けていたという。この読書協力会が元になり、のちに谷地には県内初の図書館が誕生することになる。

このように、活字に人一倍親しんできた五郎が、事業としての活版業を始めたことは、ごく自然の成り行きと考えられる。しかも先見の明のある五郎である。印刷業が情報文化産業として、後に確固たる地位を築くであろうということを、早くから予見していたのであった。そして明治43年に「田宮活版」が誕生。

これこそが当社の創業なのである。